2017.07.26 公開

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医 Dr. 岩田 健太郎

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医

Dr. 岩田 健太郎

Dr. Kentaro Iwata

神戸大学医学部附属病院
感染症内科診療科長・国際診療部長

神戸大学大学院
医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野 教授

専門:感染症

   

臨床に徹し自分自身も客観視しながら患者の全体像に迫る Dr.岩田 健太郎

臨床に徹し自分自身も客観視しながら患者の全体像に迫る Dr.岩田 健太郎

アフリカからの留学生の言葉で
「井の中の蛙」だったと知った

 医学部に進んだのは、医者になりたかったからではないんです。高校時代、教師が口にするのは受験のことばかり。僕は、大学入学のための勉強ではなく、総合的な勉強をして知の全体像をつかみたいと考えていました。まさに若気の至りで、お恥ずかしい限りですが…。医学部なら、自然科学と社会科学の両方が学べると単純に思ったんです(笑)。
 大学に入学した頃、ちょうどバブルの真っ只中で、大学は「レジャーランド」と呼ばれるほどでした。でも僕は、教養課程の文学や経済、哲学などの講義にも真面目に出席していたので、周りから「変なヤツ」とか「なぜ講義なんかに出ているんだ」と言われ、完全に浮いていましたね。

 実は、1年目が終わったところで、1年間の海外留学をしたんです。高校生の頃から、自分の世界を広げるためイギリスに留学したいという野望があって(笑)。当時はまだインターネットがなかったので、自筆の手紙をマンチェスター大学に送り、何とか語学講座で学べることになりました。
 大学では、午前中は英語の勉強、ほかの時間は医学部の講義を聴講していました。驚いたのは、イギリスの大学生が真剣に勉強に取り組んでいることです。特に留学生は熱心でしたね。あるとき図書館でアフリカ系の留学生が必死の形相で勉強しているのを見かけ、そんな人を日本では見たことがなかったので、思わず「一生懸命勉強するのは、なぜですか?」と質問したんです。彼は、教育関連の官僚でした。「私の国は識字率が非常に低く、エイズなどの感染症で命を落とす人も多い。このままでは国が滅びるかもしれない。この状態を変えるには識字率をあげ、健康教育を広める必要がある。私は、国を救うために勉強しているんです」と…。
 大きな石で頭を殴られたようなショックを受けました。「自分は井の中の蛙(かわず)だった」と思い知らされましたし、公共のために力を尽くすとはどういうことなのか? すごく考えさせられたことを覚えています。

コメディカルの意見を
大切にするのは、勘違いしないため

 大学5年のとき、他の病院で臨床実習を受けられる制度ができたんです。せっかくの機会を利用するために、夏休みに宮城県の病院での実習を決めました。ちなみに東北地方に決めたのは、「それまで一度も行ったことがない場所に行ってみたい」という極めて消極的な理由でした。  研修の内容は、日ごとに違う職種のコメディカルの方について仕事ぶりを見せていただくというもの。当然、いろいろ話も聞かせていただくわけですが、どの職種の方も、医者に強い不満をもっているんです。しかも、そのことを医者には言えない。医者がこんなにも嫌われていることを知り、ショックでした。ところが先輩の先生方は、嫌われていることに全く気付いていない。「よほど注意しない限り、将来自分も勘違いしてしまう」と思ったことを覚えています。
 今でも僕は、できる限りコメディカルの方の意見を吸い上げるように心がけています。例えば、会話は必ず敬語ですし、医局の若手のドクターがぞんざいな言葉を使ったときは厳しく注意する。また検査についても、「ボタンを押せば商品が手に入る自動販売機とは違う」と伝えています。検査を行い、正確な結果を出すには、看護師さんや臨床検査技師さんの働きが必要だと。また、特に高齢の患者さんにとって、病室から検査室に移動するだけでも大きな負担です。このことを考慮に入れ、それに見合うベネフィットがあると明言できる場合だけ、医者は検査をオーダーするべきなんです。
 医学部を卒業してから20年、ずっと臨床の現場で働いてきました。でも、在学中は「基礎医学者になるしかない」と考えていたんです。理由はコミュニケーションが苦手で、人付き合いが下手だったからです。ただ、すぐに基礎医学に進むのではなく、臨床を2年ほど経験して、バイトができるようになったら基礎医学に移ろうと考えました。そのために選んだのが、日本で一番厳しいという噂だった沖縄県立中部病院。ここで研修医として鍛えてもらえば、すぐに臨床医になれるだろうと…。本当に甘い考えだったんです。

 

本棚には医学書からマンガまで幅広く揃う。『失われた時を求めて』は何度も挫折したが、急に読めるようになったのだという

臨床マインドがゼロの
“ダメ研修医”だった

 沖縄県立中部病院での研修は、厳しかったですね。何しろ体力がなかったし、コミュニケーション能力もありませんでしたから。すぐに辞めたくなって、「しんどい」が口癖になっていました。たまたま病院の寮で同室だった研修医の親友から、「それならアメリカで研修をしたら」と言われたんです。とにかく、つらい状況から脱出したい一心だったので、書類を送りインタビューを受けることにしました。結果は合格。ニューヨークで研修医として働くことになりました。
 僕は、大学4年のときにUSMLEのSTEP1、6年のときにSTEP2に合格して「ECFMG Certificate」を取得済みでした。でも、アメリカで医師になるというビジョンがあったわけじゃないんです。STEP1を受験したのは、医学部で解剖学や生理学、病理学を学んだのに全体像をつかめなかったからです。たまたまSTEP1が基礎医学の領域から出題されると知り、試験勉強をすれば、全体像がつかめるかもしれないと考えたんです。

 アメリカでの研修は、最初は悲惨でした。アメリカの大学を卒業した内科研修医はものすごく優秀で、僕が大学で学んだことや沖縄で身に付けた知識では太刀打ちできない。それに英語も苦労しました。特に電話だと、相手が何を言っているのかわからない。わざわざ病棟に足を運び、対面で話をしていました。それでも2年目には、患者さんの治療や研修医の指導もできるようになって。でも臨床マインドはゼロで、自分の仕事は診断と治療だけだと考え、患者さんのことをトータルで見ようとしない。今の自分なら、思わず蹴りを入れたくなるような“ダメ研修医”でしたね(笑)。
 4年目になると、知識をひけらかすだけの使えないドクターだという評判が定着してしまって…。このままではいけないと反省して、ヒューメイン(人道的)なケアとは何か、必死で考えました。そして、チームで仕事をすることやコミュニケーションスキルの大切さに、今更ながら気付いたんです。当時はコミュニケーション能力が低かったので、マニュアルを使って練習したり、上手な人の真似をしたりしました。おかげで5年目になると、少しずつ評価が上がっていきました。

楽をしたければ苦労しろ!
そして、今を一生懸命生きてほしい

 感染症を専門に決めた明確な理由はないんです。どちらかというと、流れですね。学生の頃から生物に興味があって微生物学の教室に入り浸っていたこと、沖縄県立中部病院で感染症治療のフィロソフィーのようなものに触れられたこと、アメリカで初めて書いた論文のテーマが「結核」だったこと…。こうした流れがあったから、感染症のフェローに進むことを決めたのだと思います。ただ、患者さんを総合的に診ることに興味があったので、感染症だけを診る医者にはなりたくないと考えていました。
 アメリカでの5年間の研修が終わったとき、次のキャリアを考え、いくつかの選択肢から北京の診療所で働くことに決めました。どんな病気でも診られる医者になりたいという気持ちが大きかったと思います。

 北京の診療所は、発見が多く、楽しかったですね。患者さんは主に在中国の外国人の方で、国籍も多様だし、一般企業や大使館で働いている方から学生さんまで幅広く、様々な価値観に触れられました。またドクターの国籍も南アフリカ・オーストラリア・フランス・イギリス・ドイツ・シンガポール・カナダ・アメリカと超多国籍集団で、それぞれ医療に対する考え方が違う。アメリカの医療が決してグローバルではないと気付きました。また、アメリカと日本の医療を比較して優劣をつける議論がありますが、「単に違いがあるだけ」と客観的に考えられるようになったし、そもそもアメリカと日本の間に大きな違いがない場合が多いこともわかりました。
 実は、このまま中国で働こうかと考えた時期もありました。でも、たまたま亀田総合病院からオファーをいただき、「患者さまのために全てを優先して貢献する」という明確なビジョンに魅力を感じ、日本に戻ることを決めました。その後は、神戸大学医学部附属病院から声をかけていただき、大学病院で働くことを決意したんです。

 僕は、大学の教授会議で、よく「皆さんがやっていらっしゃることは、社会から見たら完全な非常識です」と発言するんです。最初の頃は、「岩田先生は黙っていてください」と言われましたが、今では「岩田先生はこういう人だから」という雰囲気に変わりました。会議以外の場でも、気付いたことはその場で指摘してきました。
 最近思っているのは、大学病院は素晴らしい場所だということです。ちゃんと伝えれば必ずわかってくれる。おそらく、患者さんに貢献したいという思いは同じなんだと思います。でも、普通の人は言わないでしょう。「大学だから仕方ない」と諦めてしまう。
 僕は、学生や若いドクターに「楽をしたければ苦労しろ」といつも言っているんです。自分が気づいたことを、特に立場が上の人に伝えるのは大変なことです。でも、その苦労をするからこそ、少しずつ環境も変わり働きやすくなるかもしれない。苦労することは、効率的に時間を使うためにも重要です。人の何倍も考え、マメにメールで連絡して、ネゴシエーションする。そういう苦労を重ねるからこそ、短時間で仕事を終わらせることができるんです。

 僕は、未来を考えるのが嫌いなんですよ。5年後、10年後のビジョンを明確にして、そこから逆算して今やるべきことを行う。そういうやり方は組織には必要でしょうが、個人の人生には必要ないと思います。自分の人生をふりかえると、偶然の連続でした。そもそも人生は、ビジョン通りにはならないんですね。基礎医学者を目指していたのに、いつの間にかどっぷりと臨床に浸かってしまった。そのうち、5年や10年で一人前の臨床医にはなれないとわかりました。僕は、臨床医学をなめていたんですね。同時に、基礎医学には戻れないと悟りました。なぜなら、基礎医学も臨床医学と同じだからです。だから僕は、絶対に基礎医学には手を出さない。それは基礎医学をリスペクトしているからです。
 若いドクターにとって一番大事なのは、今を一生懸命生きることだと思います。キャリアが長い臨床医は、それぞれ自分なりの考え方や心構えをもっています。でもそれは、そのドクターが試行錯誤を重ねてつかんだことです。それを他人に渡すことはできないし、「そうですか」と受け取ることもできない。自分で見つけるしかないんですよ。常に「何が大事なんだろう?」「何が正しいんだろう?」と考えながら、試行錯誤を続けてほしいと思います。

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Dr. 岩田 健太郎

Dr. Kentaro Iwata

1997年 島根医科大学(現・島根大学)卒、1997年 沖縄県立中部病院(研修医)、1998年 コロンビア大学セントクルース・ルーズベルト病院内科(研修医)、2001年 アルバートアインシュタイン大学 ベスイスラエル・メディカルセンター(感染症フェロー)、2003年 北京インターナショナルSOSクリニック(家庭医、内科医、感染症科医)、2004年 亀田総合病院(感染内科部長、同総合診療・感染症科部長歴任)、2008年神戸大学大学院医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野教授 神戸大学都市安全研究センター感染症リスク・コミュニケーション研究分野 教授 神戸大学医学部附属病院感染症内科診療科長・国際診療部長(現職)

Dr. 岩田 健太郎のWhytlinkプロフィール