2016.09.09 公開

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医 Dr. 林 宗博

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医

Dr. 林 宗博

Dr. Munehiro Hayashi

日本赤十字社医療センター
救急科部長・救命救急センター長

専門:救急医

   

救急医療システムを構築して地域住民の命を守り安心・安全を創り出す。Dr. 林 宗博

救急医療システムを構築して地域住民の命を守り安心・安全を創り出す。Dr. 林 宗博

救急医に転身したのは、
「40歳までに一人前になる」という目標があったから

もともと、心臓血管外科医を目指していたんです。ようやく研修医としての修行が終わり、「これから頑張るぞ」と思っていたときのことです。突然「救命救急センターの専従医」という辞令が出て…。まさに青天の霹靂でした。当時は、教授の言葉は絶対という時代。新天地で頑張るしか、選択肢はありませんでした。
3年3ヶ月働いて心臓外科に戻ったとき、37歳になっていました。「40歳までには一人前になる」。それが人生の目標だったんです。チームの一員として仕事をするのではなくて、チームをマネージメントしながら責任もって働く立場になりたいと考えていました。ところが、その目標の実現が難しくなってしまったんです。
私が心臓外科で働いていた頃、すぐ上に2人の上司がいました。2人は、私が救命救急センターで働いていた3年間、毎年50〜60例の心臓手術を担当して経験を積んでいました。そのうえ、2人とも優秀な先生だったので、自分が40歳になるまでの3年間で追いつくことは無理だろう。このままでは、「40歳までに」という目標の実現は難しいと判断しました。
幸い、3年の間に救急科専門医の資格を取得していたので、少しでも目標実現の可能性が高い救急の世界に進むことを決断しました。その頃、昭和大学で准教授をされていた杉本勝彦先生から声をかけてもらったんです。杉本先生も北里大学出身で、私が救命救急センターに配属されたときに上司として働いていた方です。こうしたつながりもあり、昭和大学で救急医として働くことになりました。

心臓血管外科医時代に執刀した手術ノート。医師になって以来ずっと使用している聴診器心臓血管外科医時代に執刀した手術ノート。医師になって以来ずっと使用している聴診器

救急医療システムを作れば、
21万人の幸せが見えてくる!

昭和大学で働いて2年目、当時センター長だった有賀徹教授から、「沼津市立病院の救命救急センターの立ち上げを任せたい」という話をいただきました。実際に見てみないと判断できないので、有賀先生と2人で病院のようすを見に行ったんです。帰りの新幹線の中で、教授から「先生が一生医者をやったとして、どのくらいの数の患者さんを診られる?」と聞かれました。「1万人ぐらいだと思います」と答えると、さらに「沼津市の人口はどのくらいだ?」と聞かれて「21万人です」と答えました。すると「先生が沼津で救急医療システムを作れば、21万人の幸せが見えてくる。夢があると思わないか?」と。この言葉で、沼津で働くことを決心しました。
沼津市立病院では救命救急センター長を任されました。ちょうどこの年に40歳だったんですよ。思わぬ形で目標が実現しました。センター長として、救急の窓口を通して患者さんが入ってくる「道」を作り、医師たちが協力して医療を提供できる仕組みを作ることに注力しました。そのために大切にしたのは、市民と市立病院の歴史を知ることです。沼津の人たちは、どんな思いでこの病院を育ててきたのか? 近くの病院とはどんな関係を築いてきたのか? それを理解することで、ここではどういう言動が好まれるのか、逆に嫌われるのかがわかってきました。ほかにも、全体像を見ながら少しずつ近づいていくことを心がけました。よそから来た人間が突然提案すると、地域の方が身構えますから。ある程度ようすがわかってきたら、「こんにちは」と言いながら軒先の暖簾をくぐって入っていく感じですかね。「この人は悪い人じゃなさそう」という印象を与えられますから(笑)。

天災の後の「人災の期間」を
少しでも短くするためには?

その後、日本赤十字社医療センターに移りましたが、実際に災害医療の現場を体験したのは、東日本大震災が最初でした。第3陣の救護班として3月15日に石巻に入り、石巻赤十字病院前に設置された救護所で働きました。その後2回石巻に入りましたが、救護班としてではなく医療ニーズのリサーチが任務でした。避難所に足を運び、治療を必要とする人の数や、咳をしている人、下痢をしている人など、実際にどのくらいの避難者がいるのかを再評価するんです。昼は自宅で作業をして夜になると避難所に戻ってくる方や、避難所に登録されていない場所で生活している方もいます。そういう方々も含めて医療ニーズを評価しました。避難所だけを見ていたら、医療サービスを必要としている方の存在を見落としてしまうからです。
今年の熊本地震では、本震の2日後に現地に入りました。すぐに避難所に行ったのですが、泥の跡がついた床の上に毛布1枚で寝ている方がたくさんいる。5年前の東日本大震災の避難所と同じ光景でした。被災地には、発災直後から医師だけでなく各団体の人が入ってきます。支援物資も運ばれてきます。ところが、集まった人をまとめ、指示を出すシステムが動き出すまでに2,3日かかってしまう。これは「天災の後の人災の期間」だと思っています。この人災の期間は、どんな災害でも必ずできてしまう時間(機能停止時間)なんです。でも、この人災の期間を少しでも短くするためにも、医療ニーズの評価は非常に重要です。たとえば避難所に非難している方の人数が増えたことや、感染症が広まっていることを把握していなければ、必要な医療を提供できませんから。ほかにも、理想論やべき論ではなくて、方法論を提示することが重要だと思います。これができないと、被災地の方にとって「ありがた迷惑」となってしまう可能性があります。

石巻で救護班として活動中。テレビの取材に対応石巻で救護班として活動中。テレビの取材に対応

「最期の時間をもつことができてよかった」
そう思ってもらうために

方法論まで提示することは、災害医療の現場に限らず重要なことです。これを実践するには、「次はどうすればいいか?」と常に考えることだと思います。最近の若い人は与えられたことは上手くできるんですが、自分で考えて先に進んでいくことに慣れていない人が多いと感じます。それは、経験不足も影響しているのかもしれません。若い人たちの経験が少ないのは仕方がないことですが、自ら経験を積んでいく努力を続けることが大切だと思います。
たとえば診療ガイドラインには、「勧められるだけの根拠が明確でない」治療も多く含まれています。これらの治療は意味がないわけではなくて、各医師が自身の経験をもとにしながら、患者さんの状態に合わせて組み合わせていくことで効果を上げられます。過去に、似たケースにぶつかった経験が血肉化しているかどうかが問われるんですね。
救急医は、患者さんの命を救うために最善を尽くしますが、それには限界がある。だから、どの段階で治療を止めるかの判断がすごく重要なんです。医師の判断次第で、患者さんだけでなく、ご家族も死を迎える準備ができます。できることなら、家族の方には「最期の時間をもつことができてよかった」と思ってもらいたい。私がこのように考えるようになったのも、経験を積んできたからだと思います。若い先生にもいろいろな経験を積み、自分で考え、成長していってほしいですね。若い先生は、知識をたくさんもっていて優秀だと感じます。あとは、知識と経験をつなげるだけです。そのための環境を作ることが、これからの自分の仕事だと思っています。

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Dr. 林 宗博

Dr. Munehiro Hayashi

1991年北里大学医学部卒業。同年北里大学病院胸部外科研修医、1997年救命救急センター専従医、2000年心臓血管外科助手。2002年昭和大学医学部救急医学講座。2004年沼津市立病院、救命救急センター長。2009年日本赤十字社医療センター、救命救急センター長。日本救急医学会指導医・救急科専門医・評議員、日本プライマリ・ケア連合学会指導医・プライマリ・ケア認定医、日本臨床救急医学会評議員、日本集団災害医学会評議員、東京消防庁救急隊指導医、東京消防庁救急相談センター救急相談医、日本DMAT隊員・統括DMAT認定者

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