2016.11.18 公開

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医 Dr. 志賀 隆

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医

Dr. 志賀 隆

Dr. Takashi Shiga

東京ベイ・浦安市川医療センターセンター長補佐 救急集中治療科部長
(現:国際医療福祉大学医学部准教授 同大学三田病院救急部部長)

専門:救急科

   

キャラクターを活かし合いER型救急を実践する Dr. 志賀 隆

キャラクターを活かし合いER型救急を実践する Dr. 志賀 隆

ジェネラリストとして生きていく!
その決意までのプロセスとは?

医学部に入学したばかりの頃は、整形外科医になりたいと考えていました。先輩から整形外科医のキャリアパスについて話を聞かせてもらっていたほどです。でも大学の講義は、細胞や臓器レベルの話が中心で、「整形外科医になったら、学んだ知識が生かせないかも」と考えるようになったんですね。

もうひとつ大きかったのが、病院内での実習です。循環器内科では心臓カテーテルや内視鏡の手技を見せてもらいながら、「毎日同じことを繰り返していて、何が面白いんだろう」と。いずれも若気の至りでした(笑)。今では、それぞれのポジションに合うキャラクターが違うだけだと思っています。自分は、毎日違うことをやりたいタイプ。スペシャリストではなく、ジェネラリストを目指すべきだと気付いたわけです。

ただ指導医の先生はスペシャリストばかりなので、私がジェネラリストの道に進みたいという話をしても、「専門性を磨くべきだ」というアドバイスばかりでした。正直、日本では無理なのかなと思い始めていましたが、その思いが変わったのは6年生のときです。

医学教育振興財団の短期留学でイギリスのバーミンガムに行ったのですが、多くの総合診療医が活躍していたんですね。しかも患者さんからも求められていることを知って、すごく安心しました。「自分の世界が狭かっただけ」とわかったし、「もしかすると日本にも総合診療医がいるのでは?」と考え始めました。

日本に戻って調べてみると、東京医療センターでは昭和61年から総合内科が開設されていることがわかったんです。東京医療センターの総合内科には青木誠先生・伊藤澄信先生・鄭東孝先生・尾藤誠司先生などが活躍されていましたし、救命救急センターもありました。

私が医学部を卒業したのは新医師臨床研修制度がスタートする前だったので、卒業後に医局に入るのが一般的でしたが、ジェネラリストになるという目標を実現するため、東京医療センターで研修することに決めたのです。

強い熱意さえあれば
道は開ける

東京医療センターでは、救命救急センターでの研修が貴重な体験になりました。その頃読んでいた本で今でも印象に残っているのが、寺澤秀一先生の『研修医当直御法度』(三輪書店)です。寺澤先生は、トロント総合病院とデンバー総合病院で救急医学を学び、福井大学病院でアメリカのER型救急の立ち上げに尽力された先生です。その本には、実際の反省症例をもとに書かれていて、まさに急性期の治療の本質がつまっている… 何度も読み返しました。

そして実際に研修を続けるうちに、総合内科よりも、救急で急性期の患者さんの治療をする方が自分には向いているとわかってきたんですね。何よりも救急の仕事が好きだと思えたし、患者さんが救急医を求めていることも実感しました。それにも関わらず人材不足という状況もある。

救急の道に進むことを決意しました。

救急医を目指すのなら、ぜひ寺澤先生に会いたいと思って、福井大学に電話したんです。ありがたいことに、「2週間後に横浜で仕事があるので、そのときに来なさい」と言ってくださいました。実際にお会いして、初期研修終了後の進路についても相談したところ、「一度福井大学を見に来るといい」というアドバイスと、数カ所の病院を紹介していただきました。

今では、逆に相談を受ける立場になりましたが、自分に会いたいという先生がいて、その先生に強い熱意が感じられるときには、できる限り時間をとるようにしています。私と同じスタンスの先生は、ほかにもいらっしゃるはずです。特に若い先生には、強い熱意をもってネットワークをどんどん広げていってほしいと思います。

憧れの対象との出会いが
成長の原動力になる

後期研修先は、最終的に沖縄の米国海軍病院に決めました。理由は、どうしてもアメリカに行きたいという気持ちがあったからです。医学部時代に、赤津晴子先生の『アメリカの医学教育』(日本評論社)を読んで衝撃を受け、アメリカの医学教育を体験したいと思ったんですね。

本には、赤津先生がアメリカの医学部で学んだ経験が書かれているのですが、「心音の聴診」の講義のとき、担当教授がいきなりワイシャツを脱ぎ捨てると、マジックで書かれた実物大の心臓と主要な血管の絵が現れたというんです。胸に描かれた絵と、学習用の聴診器を使って行われる講義の描写を読みながら、こういう教育を受けたいと思いました。

海軍病院では1年間研修をしながらUSMLE(米国医師資格試験)の勉強も。その後、浦添総合病院に2年間勤務しながら、アメリカの病院のマッチングに応募し、最終的にメイヨー・クリニックの救急科で働くことになりました。現在救急科の部長で、その当時はレジデンシーのプログラムディレクターを務めていらっしゃったDr. Sadostyは、本当に素晴らしい先生でした。

あるとき、人工呼吸器をつける必要がある患者さんを受け入れたのですが、その患者さんの家庭医が、どこまで延命処置を行うかをご家族に確認していなかったんです。私は思わず、「家庭医として失格だと思う」と言ってしまいました。それに対してDr. Sadostyは「自分もそう思う。でも私だったら、私が家庭医の代わりになって困っている患者さんに向き合います」と。もちろん彼女も、一瞬腹を立てたと思います。でもその怒りではなく、目の前の問題にフォーカスすることの大切さを教えてくれたのだと理解しています。

彼女のように憧れの対象になる人と出会うことは、自分の成長にとってすごく大事だと思います。ただ、私はDr. Sadostyのようにはなれません。キャラクターが違いますからね。私は、自分のキャラクターを活かした指導医になればいいと思っています。

世界に誇れる
プロフェッショナルを育てたい

メイヨーでの3年間の研修が終わり、次は教育面でのキャリアを積みたいと考え、2009年にハーバード大学医学部の教育病院であるマサチューセッツ総合病院救急科のシミュレーション・医学教育のフェローになりました。さらに臨床研究や医療安全の知識を身に付けるために、ハーバード大学公衆衛生大学院で公衆衛生学修士も取得したんです。

実は、アメリカ行きを決意した時点で、いつかは日本に戻り、多少のリスクがあっても「自分の城」を建てたいと考えていました。そのためにも、自分の市場価値を少しでも高めたかったんですね。同じ2009年には、日本に戻ったときのことも視野に入れて、渡瀬剛人先生と協力して若手救急医の団体「EM Alliance」を立ち上げ、2016年には会員数が当初の目標の2,000名を超えるまでになりました。団体をつくる、新たなルールをつくる、コンテンツを発信する。すると、そこに人が集まってくるんですね。

2011年には、東京ベイ・浦安市川医療センターの救急部門の立ち上げに際し、部門長のオファーをいただきました。その後、ER型救急の実現を目指し、患者さんと院内のスペシャリストをつなぐ役割を果たしてきたと自負しています。

救急科で治療を完了できれば、スペシャリストの負担を減らせるでしょう。また、患者さんを適切な診療科につなぐことができれば、スペシャリストが専門性を発揮し、患者さんは高度な医療を受けられます。この理想が実現できたのは、救急科に患者を高いレベルで診ることができる医師が揃っていることと、各部門の診療体制が充実しているからです。

来年度からは、国際医療福祉大学で働くことが決まっています。2020年に開設される成田の国際医療福祉大学医学部附属の大学病院救急部門の準備を進めつつ、医学部生の教育にも関わる予定です。救急医全体のレベルアップと同時に、世界に誇れるプロフェッショナルも育てていきたいですね。

私が考えるプロフェッショナルとは、患者さんの利益や社会の利益も同時に考慮できる医師です。自分の強みは、多少の困難があっても、道を切り開いていく勢いがあることだと思っています。救急医療の分野で世界の歴史に名を残す。それぐらいの勢いで、今後も進んでいくつもりです。

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Dr. 志賀 隆

Dr. Takashi Shiga

2001年 千葉大学医学部医学科卒業、東京医療センター初期研修医、2003年以降 沖縄米国海軍病院、浦添総合病院救急部、2006年 米国ミネソタ州メイヨー・クリニック研修、2009年 ハーバード大学マサチューセッツ総合病院指導医、ハーバード大学公衆衛生大学院入学(公衆衛生学修士取得)、2011年 東京ベイ・浦安市川医療センターセンター長補佐 救急集中治療科部長、2017年7月 国際医療福祉大学医学部救急医学講座准教授 同大学三田病院救急部部長

Dr. 志賀 隆のWhytlinkプロフィール