2017.10.26 公開

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医 Dr. 髙橋 宏瑞

WhytRunner(ホワイトランナー) Specialist Doctors Interviews 輝き続ける専門医

Dr. 髙橋 宏瑞

Dr. Hiromizu Takahashi

順天堂大学医学部
総合診療科

専門:内科

   

限界に挑戦する覚悟で
未開拓のフィールドを攻めていきたい Dr. 髙橋 宏瑞

限界に挑戦する覚悟で
未開拓のフィールドを攻めていきたい Dr. 髙橋 宏瑞

祖母を救った医師の姿を見て
医療の世界へ進むことを決意

私は千葉県出身で、ごく普通の家庭で育ちました。ただし、母は私に医師を目指してもらいたかったようで、幼少の頃から「将来はお医者さんになりなさい」と、事あるごとに言われていた… そんな記憶がボンヤリとあります。小学校の卒業文集でも「将来はドクターになる」と書いたほどですから。

かといって小中高の成績は「ややできた」くらいだったんですけどね(笑)。小学校6年生の時点で170㎝という高身長を活かして、勉強するより、バスケにハマっていました。

そんな私に転機が訪れたのは高校生の頃。ある日、学校から帰宅すると、居間で祖母が苦しんでいたんです。両親が不在だったので僕が救急車を呼び、なんとか事なきを得たのですが、祖母を救ってくれた医師の姿に感銘を受け、本格的に医大を目指すことを決意しました。当時は、内部進学で大学に進めば、医学部以外だと学費が免除という立場でしたが、勉強を頑張れば医学部合格は叶いそうで…。両親に打ち明けたところ、母はもちろん大賛成! 家族にも賛成してもらえたので、そこから必死で勉強を頑張りましたね。

試験を無事にクリアし、東海大学医学部に入学しましたが、ここでもバスケ漬けの日々を送ることに。当時は将来のビジョンも明確ではなく、「将来は開業医になるんだろうな」、「手先が器用だから外科医が向いているかも」、「でも外科医に決めてしまうと他の分野にチャレンジする機会はないかも」など、悶々としていたように思います。

一方で、様々な経験に対しては貪欲な面があり、医学部6年生の時は夏休みを利用して、ハワイの開業医のもとで1ヵ月間の研修を受けました。現地の医療システムは日本と大きく異なり、カルチャーショックでしたよ。毎日の診療が終わればゴルフに出かける、といった、今でいうところのワークライフバランスの取れた働き方も衝撃的でした。その後は、無事に国家試験もクリアし、2008年4月からは、東海大学医学部附属病院の初期研修医として医師としてのキャリアが始まります。

迷いながらくぐった総合診療科の門
海外留学を機に心境に変化も!

2年間の研修医時代は、内科はほぼ網羅。さらに呼吸器外科、消化器外科など、およそ10の診療科で多くのことを学びました。東海大の場合、ICUで実践的な研修を受けるプログラムもあり、即戦力として扱ってもらえることにとてもやりがいも覚えましたね。北海道の美瑛町立病院でも2ヵ月間の研修があり、大学病院ではその他大勢のひとりだったのが、ここでは多くの人に必要とされる実感があり、素晴らしい経験をさせてもらいました。美瑛とはその後も縁がつながっています。

同時に、「身近な人が困ったときに気軽に相談でき、それに応えられる医師になりたい」といった気持ちも芽生えるように。そこで注目したのが、当時は今ほどメジャーではなかった総合診療科です。新しい分野で幅広い知識が求められるのでチャレンジのし甲斐がありますし、「どんなことでも応えたい」という考えと「今後の医療は多くの分野とのつながりが重要」と思っていた私にとって、スペシャリストよりジェネラリスト志向の総合診療科の方が、将来のビジョンに近いと考えました。

僕は、スペシャリストは少人数でいいと思っているんです。この手術ならこの人、のようなスーパースペシャリストたちが、切磋琢磨して腕を磨いてくれたら。でも、患者にとってゲートキーパー的な役割を担うジェネラリストは、今後の高齢化の進展にも伴い、ますます必要になるだろうとも考えました。迷いがなかったわけではありませんが、まずはここから本格的なキャリアを積もうということで、2010年4月、かねてから総合診療に注力していた、順天堂大学医学部総合診療科に入局することを決心。都心にあるので、あらゆる分野の最先端の情報が集まりやすいというのも、ここに決めた理由でした。

最初の1年間は総合診療科とも縁が深い診療科を複数回り、2年目からが本格的なスタート。ですが、私は3年目からアイルランドのNational Children`s Research Centreで2年間の留学生活を送ることを選びました。やはり学生時代の時と同様、語学も含めて海外の医療事情を肌で感じたかったからです。そして、ここでのハードな生活が、モヤがかかっていた私の医師としてのキャリアに一筋の光をもたらすことになりました。

英語は必須! 海外での経験が
意識と意欲を高めてくれた

National Children`s Research Centreは小児外科の基礎研究を行う機関で、「海外で学びたい」と公言していた私に、教授のひとりが「行ってきなさい」と背中を押してくださいました。しかしながら言葉の壁は高く、最初は昼食時に仲間の会話にも入れないほど。一方で研究をしない者は帰国させられるので、勉強にも必死です。

私は「横隔膜ヘルニア」というテーマを与えられ、研究の内容は自分で考えろと指導されました。名前しか知らない疾患で、知識ゼロのところから始まったので、最初の半年は基礎論文をひたすら読み込むところからのスタートでした。アイデアをパワーポイントにまとめて教授にプレゼンし、ようやく一歩を踏み出したんです。

アイルランドのプレム教授は、小児外科の領域で世界的にも著名で、そんな人が私のアイデアに関心を示し、色々と尋ねられるようにもなったんです。自分なんかでも「ひとつのテーマを掘り下げていけば、世界のトップの人にも教えることができる」、そんな喜びに目覚め、私は研究に没頭し、合計で4本ほど論文を発表することができました。

私の学会デビューは英語での口頭発表だったんですが、プレム教授には「読み原稿禁止」「困っても自分でなんとかしろ」「最も大事なのは自信を持つことだ」と指導されました。その当時は「日本語だったらなんでもできる」と強く心の中で叫んでいたのを覚えています(笑)。帰国後は英語でも日本語でもプレゼンテーションを行う機会があり、日本語でのプレゼンでは動じないようになりました。

一度膨らんだ風船が膨らませやすいように、厳しい環境に適応すると、以前は大きく感じていたハードルも小さく感じることを実感しました。あの経験をもとに「臨床疫学ゼミ」でプレゼン塾をしたりと、意外と役に立っているなと当時を振り返っています。

たくさんの人と一緒に
あらゆる活動を楽しむ

2年に及ぶ留学生活は、私の意識を大きく変えました。それまではどことなく「仕事は最低限、プライベートを大切に」と思っていましたが、「若いうちは全力疾走でトライし、様々なやりたいことを形にしていこう」と将来像が浮かんだんです。帰国後は総合診療科に戻りましたが、チャート通りに診断をするのではなく、医師として一つひとつの行為に対して疑問や意味を問うようにもなりました。深堀りをすることで医療の質向上、患者さんに対しても、しっかりと向き合うようになったと思います。これは、研修医指導にも活きています。

ユニークな研修にも携わりました。北海道美瑛町でヤフーが実施した異業種研修です。これは、インテリジェンス、日本郵便、アサヒビール、北海道電通、美瑛町役場など、背景や年齢が異なる組織の次世代を担うリーダー格が集まり「地域の抱える課題を解決するプロジェクトを提案する」といった内容。

「地域の街おこしには医療も必要不可欠ではないか」と突撃でオファーをかけたところ、私は運営側・受講者側の両方の立場で参加させていただくことになりました。この研修は新鮮かつ実践的で、とても大きな刺激になりました。

企業で活躍するビジネスマンは、会議にもスピード感があり、医療人が思いもしないアイデア、メンバーの考えを汲み取ったレスポンスがある。それまでは、単身で海外に行くなど、単独行動が目立った私ですが、チームプレイの楽しさにも気付きました。

それに拍車がかかったのが、後に「三銃士」として活動することになる、同志ふたりとの出会いです。日本の医療という大きなテーマから入り、研修医の教育に対して何か取り組んでいこうという話で盛り上がり、定期的に会合を行っていたところ、その活動を知った感染症専門医として著名な青木眞先生が「三銃士」と名付けてくださったんです。

私自身は、学生時代の国内外研修、医師になってからの海外留学というチャンスがあり自分を変えることができましたが、誰もがこういった経験をできるわけではありません。また、学生時代は勉強や知識がモノをいう世界ですが、医師として一歩を踏み出すと、周囲とのコミュニケーション、人間関係、情報の集め方、捉え方など様々な要因がキャリアに深く関わってきます。記憶力の世界の住人から人間力の世界の住人に変わるんです。研修医の皆さんにはこの変化にいち早く気付いてもらい、いろいろな人と出会い、自分の可能性を広げて欲しいと思っています。

今後は、レジデントを応援するためのイベントなど、多岐に施策にチャレンジしていく予定です。他にも、カンボジアでの耐性菌の研究、同国における医学部生の育成など、国内にとどまらず、日本の医療を海外でも有効に活用するビジネスや取り組みにも着手していきます。

このように、多くの活動ができるのは、総合診療科長で主任教授の内藤俊夫先生をはじめ、周りの皆さんのお力添えがあってこそ。私の活動にもご理解いただき、様々な面でサポートしていただいていますから、感謝の念は絶えません。一方で、私の主業は総合診療科の臨床医であり、日々、しっかり患者さんと向き合い、診療に力を注いではじめて他の活動もできますから、そういった点を忘れてはなりません。かつて、総合診療科といえば、不定愁訴、さらには原因がつかめない症状の方が訪れる診療科というイメージでしたが、今は「まずはここで診て、場合によっては適切な診療科を案内する」といった独自の役割が求められるようになりました。そして、スペシャリストから相談されるケースも増えてきています。患者さんにとっても、「総合診療科に行けば安心」と思っていただけるよう尽力したいです。

「他人と過去を変えることはできないが、自分と未来は変えることができる」。これが僕の信条なのですが、自分からどんどん多くの人、様々なことに関わっていこうと思っています。

マイナスな部分に目を向けるのではなく、楽しいことや面白いこと、新しいことを探したい。「こんなことがやってみたい」と周りに話すことで「面白い奴がいる」と多くの人が集まってきたり、さらに大きなイベントや取り組みにもつなげられるはずですから。今後も、医療の発展や後進の教育、研究を形にするため、着実に歩みを進めたいと思います。

ある1日のスケジュール

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Dr. 髙橋 宏瑞

Dr. Hiromizu Takahashi

2008年 東海大学医学部卒業、同年 東海大学医学部附属病院 初期研修医、2010年 順天堂大学医学部総合診療科、2012年 National Children's Research Centre、2014年 順天堂大学医学部総合診療科、2015年 新島村国民健康保険診療所、2016年 順天堂大学医学部総合診療科

Dr. 髙橋 宏瑞のWhytlinkプロフィール